昭和51年11月16日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくという話とは大体どういうようなお話だろうか。ここを一つあの把握するということが、自分自身もおかげを受けるということでありますよね。金光大神に、いつまでも尽きぬおかげ。そこでならこの教典の全てでありますけれども、なかなか見やすいようであって非常に至難難しいです。もうあまりに難しゅう、みやすう説いてありますからいよいよ難しい。
まぁ煎じ詰めますと、和賀心を目安ということであり、それをいよいよ身に付けていくためには、実意丁寧神信心ということになるんです。だからどう言う様な風に致しましたら、実意丁寧神信心になるのか。もう本当にまぁ実意丁寧、そのままに丁寧に拝む人があります。毎日何十年間と日参を続けておる人があります。からというてならいつまでも尽きぬおかげを受けておるとは思われない人が、又沢山あります。
だからこのいわば教祖の御教え教典から本当にこう、練りに練り体験に体験を積んで、そして尽きぬおかげの頂ける教祖のご信心の生粋と言った様なものは、どこに焦点をおいて信心をさせて頂いたならよいかと。ということをまずは分からなければならない。まぁ最近合楽でいわれます、まぁ金光教の信心のまぁ決定版とでも申しましょうか。お道の信心はこれをここまで極めて、これを身に付けて行く事以外にない。と合楽ではいわれておられます。
しかもそれは信心を本気で頂こうとすれば、こういう素晴らしい生き方があって、しかも限りないおかげに繋がって行く事間違いなし、というように。まぁいうならば私が皆さんに確信を持ってお話を聞いて頂いておる。ですから皆さんがこの沢山の教典の中から、勿論この教典の裏の裏。又はその深さ。もう様々に私がここ三十年あまり、説きに説き明かして来たけれども、それを要約して生粋なところだけを申しますと、真の信心とは神様が私共に求めたもう修行を、実意丁寧に受けて行く事だとこれが一つ。
神様が天地が、私共の小天地であるところの私共に、天地の親神様が、いうなら氏子である私共にです求めたもう修行。それをなら合楽では成り行きを大切にさるしてもらう。いやその成り行きそのものを、尊んで頂くということになる。全ての事柄をこりゃもうどうしたことが起こってきたじゃろうか、と言う様な頂きかたじゃなくて、その事柄を神様が私に下さる、神様の神愛の現れとして、御の字を付けて御事柄として受けていく。勿論これは御事柄だけではありません。
いうならば一切のものに対しましても、御物ということになる。だから御物として頂くから一切の物をいわば押し頂く、お粗末ご無礼しかならないという事になる。いよいよ広く大きくおかげを頂かなければならない。又そういう願いを持たない者は一人もない。大きなおかげが頂きたい。たいならば大きなおかげの受け物を、受けなければならない。盃ぐらいな受け物を持って来て、一升の酒を下さいといったって、下さる事は下さるけれどもそれは漏れてしまうのです。やはり受け物盃いっぱいしか頂かれない。
そこで最近はね、ウ冠に草冠を書いて見ると書いてひろし。ひろしという。寛大の寛という字である。そこで全ての事柄とか全ての神様の働きを、そのまま神様の働きとみる。例えば腹の立つ問題がそこに起こってきても、それを神の働きと見るところに、腹の立つ問題ではない。神様がこのようにしていよいよ広い、大きな心を頂かせて下さるとする、働きがもう始まっておるとして、それを合掌して受けていくという。
そういう信心を日々繰り返しして頂く事は、もう実に分かれば分かるほど、勿体無いのであり尊いのであり有り難いのです。それが信心を頂くということだと。その上そうして神様が下さるおかげを、受け漏らすことのないことの為に、一番今合楽でもういよいよ合楽の信心が、完璧の域に入ったという風にまで表現して、皆さんに聞いて頂いておる。成そうと思えば子供でもなせるようなことを、私共が今まで疎かにして来た事に気付かせてもらう。成そうと思えば子供でも成せること。
それを難しい風に「成せばなる、成さねば成らぬ何事も、成さぬは己がなさぬなりけり」と、なんか大変難しい事に取り組むことのように思うておったが、そうではない。成せばなるということは、それこそ成そうと思えば子供でも出来るような事。今私の方の洗面所から、風呂場あたり行くと、それがもう見事に今出来ております。もう本当に有り難いなぁと風呂に入った途端に、なら拝まにゃおれないようなものを感じます。
タオルやらもう一枚一枚ぴちっとこうやって、こう使った後にまぁお礼を言うてここにかけただろうと思われるようにきちっとしてあります。だから本当にお礼を言う思いで、タオルが今までポーンとかけてあったり、石鹸がもうどろどろになって、その角の方にあったり。それではいけないということを分からせて、いわゆる心行のとものうた風呂の入れ方をせろというのです。勿論お風呂に入るから、入った時湯船につかって有り難いなぁと思わない者はないでしょう。
寒い時でも暑い時でも、一風呂浴びて汗を流した時の壮快さ。寒い時に一風呂浴びてから温まった時に、はぁこれこそ極楽という心が起こります。そういう極楽と言う様なその心をです次の人にも極楽を味おうて頂く為に、いよいよなら次に入る方が気持ちが良いようにと、風呂も洗い流しておこう。石鹸も綺麗にしておこう。タオルもきちっと掛けておこうと言う風に、これは風呂だけの事じゃありませんよ。全ての事にそういう心を使うてです、行くと言う事はもうそれこそ子供でもなそうと思えばなせる事でしょうが。
そういう簡単な事をです、いわば心行に重点をおいていない時には出来なかった。その事を、いわば大きな受け物が出来た。大きなおかげを頂いた。それが漏れてしまうというのじゃなくて、それを受け漏らさないために、信心を心行一本にしぼって、何時も自分の心を神様へ向けておく。何時も自分の心をね、人が楽になることの為に喜び、喜ばせて頂くことの為に、そういう心掛けをさせてもらうということが、そのまま心行だといわれるようになりました。
そこでいうならね、その中に全部金光教の信心のこの全てが入ってくるというても良いくらいなんです。もう和賀心は自ずと生まれてくるです。だからその過程をお互いがいよいよ大事にさせて頂いてです、尽きぬおかげを話に残しておくと仰るが、そんならこの教典を全部覚えてから全部行じなければならない。なるほどそうですけれども、それを行じたところの生粋のものが、今私が申しましたような事になるのです。何十年間私が説きに説いて来た事を、これなら絶対間違いのない、何時までも尽きぬおかげが頂かれるという信心を身に付けるということ。
だから昨日の御理解を頂きますと、そのことにもう掛かり切らなければいけない。そんならそのことに掛かり切るということは、ここの仕事が出来んということではなくてです、もうそれこそ商売人がそろばんを持つ手に、お百姓さんが鋤鍬持っておる。そこに信心が心行が伴うところにです、ちょうど繁雄さんの例をとって昨日も話ましたように。それこそ持ついうならば鍬とか、鎌とか。それを使わせて頂くお料理に、心が熱うなるような感動を覚えるというのです。
いうならば仕事しながら、有り難うならせて頂く稽古が、心行であり金光教の信心だという事なんです。私は金光大神が「いつまでも尽きぬおかげを話に残しておく。」という、この沢山な御教えの中からです、それをいよいよ行じて行ってです。どれが本当のことかどれが真のことかと、いうなら練りに練っていっておる内に、合楽ではそういう一つの、合楽の真のおかげを頂くための、いわゆる合楽理念と言う様なものが、はっきりしてきたわけです。ね。
昨日は、富久信会でしたから、まぁ色々本当に時間が足りないように、十二時半ぐらいまでお話を致しましたでしょう皆さん。その中に田主丸の石井信司郎さんが、こういう発表をいたしておりまして、私はもうそれそのことが非常に、尊いことだな有り難いことだなぁと思わせて頂いたんですけれども。だから私が皆さんにこのように簡単に、金光教の信心をの生粋を、しかもこれなら何時何時までもおかげの頂けれる、お徳も受けられるという話をです。
たったそれだけの十分か十五分間でお話を出来るくらいに、簡単にこうまとめた。そしてなら私がそれこそ卓を叩かんばかりにして、皆さんここを本気で皆さんのものにしていかなきゃいけないと。簡単に言うておることがです、私は昨日机上の空論になってはならい。親先生あんたはそげん言いなさりますばってん、そげん簡単にはいきませんよと。いわれはせんだろうかといよいよなことを、私はちょっと今日思いました。石井さんの話が好きな方。
昨日、富久信会ですから、商売大変忙しい仕事を、呉服屋さんです。それにベビー用品店をと二店お店を持っております。家内がベビー用品店の方を受け持ち。自分がこのこの通りに呉服をなさっておられます。本当にもうこの頃ある人が言ってましたが、もう信司さんな偉いち。もう本当にまだ二十幾つの時分に、いうならばその柱であるお母さん、親達が亡くなってしもうて、しかもその後に本当にむつやのお家騒動と、周囲の者がいう程しの色んな問題を抱えてそこを乗り切って。
今日まであぁしておかげを頂いて、勿論あの立派、まぁ立派な店を出すためには、随分の銀行からの借金もしてから、建てたけれども、それが年々歳々段々繁盛していって、その借金も段々払うていきよりなさるちゅうことはもう、本当えらいというてあの話をしておりました。私も聞いて本当に神様のおかげを頂かなければ、出来ることではないなぁと思います。今青年会長ですから35でしょうか、4でしょうか。若さでそれだけのことを、いうなら親達の後始末やらもしてから。
しかもお店を立派に立てて切り回して、二軒もの店の亭主としておかげを頂いていって。だからもう忙しいと言ったらもう大変に忙しい。けれどもこと神様のことというたら、神様この頃からも発表しており、青年会で色んな会合がありますと、何日も外さなきゃならない。丁度忙しい時でも本当に神様の方へ、もうそれこそ家のことはもうもう自分が死んだと思うて、欲を放してというような気持ちで、もう泊まり込みでここで信心実習いたします時なんかこなきゃいけません。
ところが不思議な事に家ではそれ、いわば主人がおられなくても結構おかげが、しかも何時もの売上よりも多く売り上げておる、と言った様なまぁ普通でいうなら不思議なおかげをやっぱ頂いておる。なるほど、「神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる」と仰るようなところを、あの若さで体験していっておる。昨日も忙しゅうてバタバタして、あのご飯を頂いてから直ぐ合楽に向かおうと思うて、ご飯食べにまぁ帰りました。ところが家内がもう顔を顔じゃない、右の耳を押さえてから。
もう私の方の家内は、もう私の方に嫁って来て五年になりますが、一遍だって寝たこともなからなければ、どこが痛いというたことがない程に強いち。それがもう昨日はもう大変にもう耳がうずいてどんこんされんというてその、だからご飯も出来とらん。しかも五つ頭に四人おりますから子供が。そりゃもうそのしかも年寄りおらんですから、もうほんな夫婦差し向きでそれだけの事やって行けれるということだけでも偉いですよ。もう私は本当にあのそれを聞きながらね。
それでも俺はもう合楽にいかんならんから、というてまぁ普通の嫁御ならばもうちょいとこげん悪かとあんた、金光様ほうからげてからあんた出て行きなさるですかち。というとこでしょうけれどもね。それこそ梅田ありゃ「雲浜」でしたかね芝居のあらすじでしたかね、あの周囲に腫れますよ。母はは病床にあり子は上にある。上にないちいよる訳じゃないけれども、とにかく五つ頭に四人ですけんもう、それこそもうもうそりゃもう、想像しただけでもですね。
あん泣きよるとがおる喧嘩しよるとがおる、と言う様な風じゃないでしょうか。もうそれこそ後ろ髪を引かれるごたる思いで、家を出てきたとこう言うのですよ。そしてここへ出て来てから感じたことはです、はぁ出てきてよかったと思うたら、有り難うなったという発表をしました。だから私は簡単に、今いう合楽の信心の生粋と言った様な事を、なら五分か十分間で、こうやってお話を聞いて頂いたが、その内容というものは、そういうところも通らなければならないということです。
そして通り抜けてきたところに、はぁ参って良かったと。そして私はその申しましたんです。昨日は実は末永先生のところの、お教会ですか初代の教会長であります末永先生ためにはお爺さんになる。むつやの嫁御のためにも、お爺さんになるわけです。壱岐の教会から来てますから。昨日はそのお爺さんの49年の丁度帰幽日にあったっておりました。来年がいわゆる五十年祭。もうこれは感心なことですそりゃ教会ですから、家ではちゃんと霊祭もあっとるでしょうし、それだけの事がしてあるだろうけれども。
こちらに子供達が紀久男さんところに三人こちらへ来とりますから。その三人の者が話合い思いあって。末永先生が何時も芯になって、御霊のお祭りを必ず致します。昨日ただ帰幽日だったでしたけれども、4時の御祈念に併せてもう本当に賑やかな、霊祭を奉仕させて頂きました。ところがそのうむつやの信司さんが、そのお祭りちょっと前に参ってきとりました。ところが本人は知らなかったらしいです。いや私は後でその香世子さんと言いますもん。
だけん香世子さんには今日の事は知らしとらんじゃおらなかったのかと、私がいったら、いいえ香世子だけには言うてあったとこういうわけです。ところがそんな風で忙しいもんですから、今日お爺さんの霊祭がありよるで、ありよるのだけれども、そのお参りが出来てなかったんです。だから夕べ信司さんに私がいうんですよ。帰ったなら香世子に言うときなさい。あんたが今日はお爺さんのお祭りというて、案内まで受けておってお参りもしてきとらん。
本当いうたら自分がさぁなら叔父さんの好きであった、甘い物を一つも辛い物の一つもお供えでもさせてもろうて、お参りしてくるのが当然だと。ほんな足元におるんだから。それにいうこと聞かなかったけん耳が痛かったじゃっけんでそりゃ、もう帰ってそのことを、はぁほんにお父さんそうじゃったろうね、ちゅうたら耳は直ぐようなるばいち私が申しました。まぁそげな事でまぁ昨日は、その家内が耳が痛い。あの夕食の準備も出来ていなかった。
しかもその四人の子供達ががやがや言うておる中に、いや俺は今日は富久信会だからというて、もうそれこそ後ろ髪引かれる思いで、こちらへこらせて頂いたら、本当にまぁ信心ちゃそげんいや難しいもんのごたるけれども、ここへ来てみて見やすいという事が分かる。有り難くなるという事ですから。信心とは結局有り難くならせて頂く稽古です。どういう中にあっても、有り難いと思うたら、もうきつさもしるしさもないです。それこそ鍬を持ってありがた涙がこぼれる。
だから信心生活とはそれなんです。それでいてなら今日皆さんに聞いて頂きましたようなところをです、いよいよマスターする身に付けて行く。成り行きを大事にする。全ての事に御の字を付けて押し頂く。もう本当にですね、あの一切のものを額に額につくようにしてから、あの頂いたらおかげになる。これは教祖様のみ教えの中に、先日新たな御教えの発表があっております中にあります。だからこれもう信心とは本当に素直にそれを、あの守って実行する事です。理屈じゃないです。
そげなことするならおかしかてんなんてんいわずに。お風呂に入らせて頂いたら、私は三杯必ずそれこそ額に引っ付けるようにして、まず、お湯を拝みます。それ一遍でんよかろうもんち。そりゃ一遍でんよか。せんよりかよか。けれども三遍すりゃなおよかち。例えば教祖様がそう仰るのだから、そうさせて頂こうというそれが信心です。そう三遍押し頂くおられない心におかげがあるのです。
今日私は「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげ」なら、を話にしておくと仰るが、ならその話とはどげな話じゃろうかと、私共がまず分からなければいけない。それを分からんなりに、いうならば探りをいれるようにして、あれでもなかろうかこれでもなかろうかとお互いが、信心を極めて行く時には色々な修行をしながら、分かろうとつとめます。けれども合楽で三十年間の間に、もう域これが金光教の信心の完璧だと思われるような域に達したという話が、今聞いて頂いただけのお話なんです。
だからそれをいわば有り難く楽しゅう、少しは修行のところがあろうけれども、私共はそのう最後に、私は今日は信司さんの話を聞いて、大変私自身おかげを頂いた。本当に信司さん家内がもう一生懸命仕事して帰らせて頂いたら、お父さん今日は富久信会ですよ、とはよご飯食べとる出来とりますはよう頂いて下さい。というてあのいうてくれるような時期のくる、今ほん信心にあるところだと私は申しました。そうですよ。家内がねそこらへんのところがです、私はいうなら素晴らしいタイミングが生まれて来る。
もう少し目細う信心させて頂いておる。もう少し例えば今日お爺さんの霊祭。今日は店閉めてからでも、お父さん合楽にお参りさせてもらいますよと。と好きなお供え物の一つのを持ってお参りをさせて頂くような、心がけにならせて頂くいわゆる寸前にあるわけ。神様ちゃ厳しい。本当にいうことを聞かなかったら、もう早速今までかつて味あうがこともない苦しみを耳に感じておる。
私は昨日その霊祭を奉仕させて頂いて、本当に一番有り難いと思った事は、私がここ4、5日色んな同じようなことを皆さんに聞いて頂いてるでしょう。合楽の信心が完璧の域に達したと言う様な事を聞いて頂いておるでしょう。これは皆さんだけじゃないです。私に縁のある限りの御霊が聞いてるです、皆ぃんな。その証拠に昨日私は、霊祭の神様へお届けをあのさせて頂きました。
ただ今から、こうして霊祭をさせてもらうから、というお届けをさせてもらいましたら、御心眼にねほんにもう、あの皆さんのもあのその、状態を見て頂きたいと思うぐらいに、あの榊という字を頂いたです始め。木偏に神とあるでしょう。榊という字は木偏に神という字が書いてある。その木偏のところをスパーッとこうなら、切ったかのけたか分からん。もうとにかく凄まじい勢いで、あの木偏のところを取り除くところを頂きました。と、後に残るのは神でしょう。榊の字の木をとる。
いうならば例えば私共が、何十年間そうであったようにですね、いわば成り行きも大事にした、御の字を付けて頂いて来た、最近ではもうその、神の字以前頂いて来たけれども、それではまだ不完全であった。頂いたおかげがどこからか漏れよる。それを最近気付かせて頂いて、どこから漏れよったかという事をを検討させて頂いたら、それこそ成そうと思えば子供でも出来るような事を疎かにして来ておった。そこからおかげがもっておったという風に分かった時にです。
もう完璧いわゆるこの完璧の域に入ったと言う事は、又これは限りない事ですよね。これはまぁ難しくいうと、生神へ向かっての精進なのですから。これはもう限りなく垢抜けした者に、限りなく又深い物にして行く訳です。今聞いて頂いたような事を、限りなく繰り返して行く事です。それでもう出来あがってしもうたと言う訳じゃないけれども。そういう話を人に伝えて自分がおかげを頂いて行くのが、神へのお礼とも神になるのぞともいうておられます。だから神になるのぞという意味が分かるでしょう。
これが「神になるのぞ」というというところ、ならいうならばおかげにもならないような話をしていったってつまらんよ。これなら絶対という確信を持って、自分自身もおかげを頂き現わして。そして成り行きを大事にしていきなさいよと、一切を神の字で受けて行きなさいよと。全ての事を神様が下さる事柄だから、それに御の字を付けて頂きなさいよという風にです、人に伝えていくそれが神になるのぞ。
いわゆる完璧の域に入った。そして一歩一歩神様へ向かって進んで行く、そういう信心修行です。そういう素晴らしいことを魂がね、だから肉体を持っておると様々なそこに、問題がありますしてね。参らんなんばってん眠かったり、参らんなんけれども痛かったり痒かったりでです、なかなか出来んのですけれども、魂はもう肉体をなくしておりますから、それがしかも初代の壱岐の教会長をなさったからですから、もう今合楽でいわれておることがぴんぴん分かるわけです。
そしてその木を取って神になる精進が、いよいよ出来て行かれておるという事を、昨日お知らせを頂いて、御霊様の方へ移らせてもらいました。そしたら頂きますことがね、頭をきれいにつんでる。そしてあの床屋さんでこう耳をかいてくれるでしょうが。今は床屋さんではしませんけれどね、昔は必ず耳をかいてくれよった。頭つんだ後つんだ後に。そうやってもう耳かいてもらって、何時も気持ちがよいでしょう。耳、目を細めてから本当に気持ちがよいです。
そういう耳をあの目を細めて、気持ちのよさそうにです耳をかいてもらいよる状態。御霊様が耳かいてもろうたり頭つんでもらったりという意味じゃないです。御霊様の心なんです。そうでしょうもうあちら、壱岐の方で出来とろうけれども、止むに止まれん心が孫達が集まって、いうならば又は曾孫まで集まって。爺の私の為に霊祭を仕えてくれておる、その喜びがちょうど頭を切り替えてちゅうことは、信心が新たな信心が分かったということなんです。
その上に孫達の行届いた霊祭を頂きながら、もうそれこそ目を細めて喜んでおられる状態なんです。そういう情景を御心眼に拝ませて頂いたんですけれどもね。信心させて頂いたら、もう本当に世のお役に立つための信心だけではなくて、先祖が生きあがって来るような、信心につながらなければだめです。親を大切にすれば、機感に神様の機感に叶う。親ということは先祖にも繋がること。それを例えばしようと思えば出来ることを、親の立ち日すら忘れておるようなことでは、おかげにならんということです。
成そうと思えば、誰でも出来る事を疎かにしては、せっかくおかげの受け物を頂いて、大きく頂いておっても、その大きなおかげの受け物だけで、漏りよるそこにおかげがどうも同道回りをしよる。おかげの同道回りではいけません。おかげがそれこそ、それこそ日に月に年々歳々繁盛のおかげに繋がっていかなければいけません。今日私は「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にして残しておく」と仰る話とは、ならどういう話であろうかという事を、み教えの全てを。
いわば一応はマスターして、又はそれを行ずることも実行させて頂いて、そしていよいよ生粋のところの信心。教祖の御教えを全て一所に集めるならば、今日皆さんに聞いて頂いたようなところになる。それをまず行うていくならば、もう間違いのないおかげに繋がって行く。間違いのないお徳が受けられて来る。というてなら行ずる事を私がいかにも、あのまぁみやすい表現で聞いて頂いたですけれども、そういうものを実際に身に付けていくことの為には、信司さんにの昨日のそれじゃないですけれども。
そういう忙しいだけじゃなくて、家庭にはそう事情もある事の中にです、いや今日は富久信会だから俺はもう行くぞと、何もかにも振り来て振り捨ててです合楽に出てくる。その合楽に出てくる途端にです、後ろ髪引かれるような思いで出てきたけれども、途端に有り難うならせて頂いたという信心です。そういうところに私は信心の妙があると思うです。昨日も済みましてから、文男先生が又足を揉みに来てくれました。もう前の晩もほとんど寝ないじゃったから、よっぽど断ろうと思うたけれども。
足はやっぱり痛いし揉んでもらった方がよかもんだから、もう又ほとんど寝なしで揉んでもらったんですけれども、まぁ信心話をいろいろさせて頂きよります中にです、あの福岡から後藤さんという、のが野中さんの娘さんです参って来るです。ご主人が船乗りです。その船乗りさんの話を聞きました。それがもうやっぱり船乗りというはもう、楽なことだけれどもあんまり楽だからもう、それこそノイローゼになって気違いになって帰るとがおるそうですよね。
ほりゃもうその海の中で、七ヶ月か、八ヶ月も乗っとらにゃんそうですからね。こう地球を一遍どうり一周するぐらいっぐらいなそのう、航海に出た時なんかはね。しかもまぁ船がこうやって動いていっておる時には、まぁまぁいいそうです。けども荷物を積むとにその荷物をもらうとをまっとかんならんとに、五ヶ月ぐらい港にで待っとかんならんようなことがあるそうです。もうそげん時にはもうほんなこて、やっぱりこげん楽はことはないでしょう。ジーとい船はうごかんです何にんせんでよかちゃ。
食べるとはあるとじゃけん。けれども楽なと言う事はですねあの何もない事。はぁお金があって物があって御芝居見に行けれる。飲みたい物は飲めれると言う様な事が楽ではないと言う事です。それなら結構けだらけのような生活をしよる人が、あなた楽ですかちゅたらもう絶対楽じゃないです。お互いがね信心さえて頂いて信心の本当の事が分かってそれを行じて、例えていうならば今も申しますような、信司さんがそういう後ろ髪引かれる思いで教会に参って来た途端に有り難うなる。それが本当の楽なんです。
もう一日一生懸命働かせて頂いて、お風呂を頂かせて頂く事こそが、本当の楽なんです。朝からぶらぶらして何にもせんじゃった。もう寝て食うてからといかにも楽なごたるけれども、心は決して楽じゃないです。だからせっかく様々なところを通っての、後に楽があるならばです、その様々な事を信心に切り替えなきゃいけんです。だから信心にかかりきらなきゃいけんて私がいうです。昨日から言ってるでしょう。
もうそれに掛かり切りにです、というてならお広前にちゃんと参ってきとかんならんというのではなくてです、絶えず自分の心の中に心行させて頂いて、それこそお百姓さんが持つ鍬の手に暑い有り難涙が零れるような、生き方があるだという事です。楽とは私はそう言う事だと思います。お金が出来て遊んで暮らせる。決して楽じゃないです。だから本当の楽それをいわば極楽と言う訳でしょうけれども、本当の意味においての極楽を目指すと言う事が、信心のいわば信心の焦点なんです。その焦点に向かって焦点は出来た。
そこでならどういう生き方をというのが、なら今日の御理解の全てです。しかもそういうおかげを頂かせて頂くそれを、人にも伝えて行く。間違いのない生き方です。を人に伝えて人にもおかげを頂いてもらう。そう言う事をなら合楽示現活動と言う事にもなりましょう。それが神になるのぞと。神様へ一歩一歩近付いて行けれるという生き方です。私は今日の61節をです、まぁあのじゃなかろうかと思いますと言った様な話ではなくて、そうだと私が断言して今日はこの61節を、皆さんに聞いて頂きました。
どうぞ。